マトリックス組織とは、組織を一つの軸だけでなく、二つ以上の軸で同時に構成する組織形態のことを指します。通常の組織では、「営業部」「開発部」「人事部」のように、仕事の種類ごとに組織を分ける「機能別組織」や、「製品A事業部」「製品B事業部」のように事業ごとに分ける「事業部制組織」がよく使われます。これに対してマトリックス組織は、「機能」と「製品」あるいは「機能」と「プロジェクト」「地域」と「製品」のように、二つの基準を同時に当てはめて構造を作る点に特徴があります。
マトリックス組織とは何かを理解するための基本構造
「マトリックス」という言葉は、格子状の表をイメージすると分かりやすくなります。縦方向に一つの軸(例:機能)、横方向にもう一つの軸(例:製品)をとり、その交差するマス目ごとに担当チームや担当者が配置されるイメージです。これにより、一人のメンバーが「所属している専門分野の上司」と「担当している製品やプロジェクトの上司」という、二つの上司を持つ構造が生まれます。このように、指揮命令の経路が二重になることを「ダブルレポートライン」と呼びます。
マトリックス組織は、単一の軸では捉えきれない複雑なビジネスを扱う際に用いられることが多く、多種類の製品を扱う企業や、複数地域に展開している企業、プロジェクトベースで仕事が進む業界などで採用されやすい構造です。
二つの「軸」で構成される組織という考え方
マトリックス組織を理解するうえで重要なのが、「二つの軸」の存在です。ここで言う「軸」とは、組織をどういう基準で分けるかという切り口のことです。代表的な組み合わせとして、次のようなものがあります。
- 機能軸 × 製品軸
- 機能軸 × プロジェクト軸
- 地域軸 × 製品軸
機能軸とは、「開発」「営業」「マーケティング」「人事」など、仕事の種類ごとに分ける観点です。製品軸は「製品A」「製品B」「製品C」のように、扱う商品やサービスごとの観点です。地域軸は「日本」「アジア」「欧州」「北米」といった地理的な区分で組織を見る観点です。プロジェクト軸は、一定期間内の特定の目的達成のために組まれるプロジェクト単位の観点を指します。
マトリックス組織では、たとえば「開発部」に所属しながら、「製品Aのプロジェクトチーム」の一員として働くといった形になります。この場合、メンバーは開発という専門領域を持ちつつ、製品Aの成果にも直接関わることになります。開発メンバーが製品A・製品B・製品Cといった複数のプロジェクトに分かれて参加していることも多くなります。
この構造によって、企業は「機能別に専門性を高める視点」と「製品やプロジェクト単位で成果を出す視点」の両方を組織構造の中に取り込むことができます。機能軸が専門性の深さを担い、製品軸やプロジェクト軸が市場や顧客に近い視点を担う形になり、この二つが交差する部分に日々の仕事が配置されるイメージになります。
ダブルレポートラインという指揮命令系統
マトリックス組織の大きな特徴として、「ダブルレポートライン」という考え方があります。レポートラインとは、誰が誰に報告し、誰から指示を受けるかという指揮命令の経路のことです。通常の組織では、一人のメンバーには基本的に一人の直属の上司がいて、その上司のラインに沿って組織が階層的につながっています。
しかしマトリックス組織では、次のように二人の上司が存在する構造がよく見られます。
- 専門分野を管理する上司(例:開発部長、営業部長など)
- 製品やプロジェクトの成果を管理する上司(例:製品Aマネージャー、プロジェクトリーダーなど)
メンバーは、専門スキルの評価やキャリアの相談は機能側の上司に、担当する製品やプロジェクトの進捗や優先順位の相談は製品・プロジェクト側の上司に行う、という形になります。このとき、「どちらの指示を優先するのか」「時間配分をどのように決めるのか」といった点が重要な運用上のテーマになります。
ダブルレポートラインは、一見すると複雑に感じられますが、視点を変えると「一人のメンバーに対して、二つの観点から目を配る仕組み」とも言えます。専門性の観点と、事業成果の観点の両方からフォローされることで、単一の軸では気づきにくい課題や改善の余地を見つけやすくする狙いがあります。
マトリックス組織で働く人の立場と役割
マトリックス組織の基本構造を理解するためには、その中で働く個々のメンバーやマネージャーの立場をイメージすることも大切です。特に、メンバー、機能側のマネージャー、製品・プロジェクト側のマネージャーの三者の役割を整理すると構造がつかみやすくなります。
メンバーの立場では、次のような特徴があります。
- 所属としては「○○部」(例:開発部・デザイン部など)の一員である
- 実際の仕事は「××プロジェクト」や「製品Aチーム」といった単位で行う
- 専門スキルの成長や評価は機能側の上司から受ける
- 日々のタスクの優先順位や成果はプロジェクト側の上司から求められる
機能側のマネージャーは、専門性の維持・強化や人材育成、長期的なキャリアの面倒を見る役割を担います。具体的には、技術やノウハウの標準化、研修の計画、スキルマップの整備などが含まれます。一方で、製品・プロジェクト側のマネージャーは、納期や品質、コスト、顧客満足といった、事業やプロジェクトの目標達成に責任を持つ立場になります。
このように、マトリックス組織では、一人のメンバーが「専門集団の一員」であると同時に、「特定の製品やプロジェクトチームの一員」でもある構造になります。役割の分担を明確にし、誰がどの観点の責任を持つのかを理解しておくことが、マトリックス組織でスムーズに働くための前提になります。
マトリックス組織が採用される主な理由
マトリックス組織が採用される背景には、企業を取り巻く環境が複雑化していることが大きく関係しています。かつては、一つの主力製品や一つの地域市場に集中していれば成長できる時代もありましたが、現在は多くの企業が複数の製品ラインを持ち、複数の国や地域でビジネスを展開しています。その結果、「製品ごとの視点」「地域ごとの視点」「専門機能ごとの視点」など、複数の観点を同時に組織運営に反映させる必要が生まれています。
従来の機能別組織や事業部制組織では、一つの軸を中心に組織を設計するため、どうしても特定の観点が優先されがちです。たとえば、機能別組織では専門性の強化には向いていますが、「製品ごと・顧客ごとにきめ細かく対応する」という視点が弱くなりがちです。逆に、事業部制組織では製品ごとや事業ごとに深く入り込めますが、「技術やノウハウを全社で共有する」という観点が弱まりやすくなります。マトリックス組織は、このような単一の軸だけでは対応しにくい状況に対して、複数の視点を同時に持ち込むための解決策として採用されることが多い組織形態です。
特に、プロジェクトベースで仕事が行われる業界や、グローバルに事業を展開している企業では、マトリックス組織によって「機能の専門性」と「市場・顧客への近さ」を両立させようとする動きが見られます。開発・営業・マーケティングなどの専門領域を維持しつつ、製品ごとや地域ごとに責任者を置いて、両者が協力して価値を生み出すことを狙う構造がマトリックス組織の採用理由の根本にあります。
理由1:専門性と事業責任を同時に重視するため
マトリックス組織が選ばれる大きな理由の一つは、「専門性」と「事業責任」の両方を同時に重視したいというニーズがあるからです。ここでいう専門性とは、技術・デザイン・営業・マーケティングなど、特定の分野で深い知識やスキルを持つことです。一方、事業責任とは、製品やサービス、プロジェクト単位で成果を出す責任を持つことを指します。
機能別組織では、専門性の強化には適していますが、「この製品の売上や顧客満足度に誰が責任を持つのか」という点がぼやけやすくなります。一方、事業部制組織では、製品や事業ごとに責任を持ちやすくなりますが、技術やノウハウが事業ごとに分断され、全社として専門性を高める仕組みが弱くなる傾向があります。
マトリックス組織では、次のような形で両方の視点を組み込みます。
- 機能軸:技術・営業・マーケティングなどの専門組織があり、スキル育成・標準化・品質の維持を担当する
- 製品・プロジェクト軸:製品A、製品B、特定プロジェクトなどがあり、売上・利益・納期・顧客満足などの結果に責任を持つ
メンバーは機能軸に所属しつつ、製品やプロジェクトのチームにアサインされるため、日々の仕事を通じて事業成果に貢献しながら、同時に専門スキルを伸ばしていくことができます。この構造によって、「専門性だけに偏る」「数字だけ追いかける」といった片寄った状態を避け、両方のバランスを取ろうとするのがマトリックス組織が採用される理由の一つです。
理由2:複数の市場・地域・技術を横断的に扱うため
もう一つの大きな理由は、企業が「複数の市場・地域・技術」を横断してビジネスを行う機会が増えていることです。たとえば、同じ製品であっても、日本向けと海外向けでは求められる仕様や価格帯、販売チャネルが大きく異なる場合があります。また、同じ技術基盤を使って複数の製品を展開するケースもあり、「技術は共通だが、ターゲット市場は異なる」という状況も一般的になっています。
このような環境では、次のようなニーズが生まれます。
- 共通の技術基盤やプラットフォームを全社で共有しつつ、製品や地域ごとにカスタマイズして提供したい
- 地域ごとの事情(法規制・文化・商習慣)を踏まえて、ローカルな判断も取り入れたい
- 複数製品にまたがる共通課題(セキュリティ、ユーザー体験など)を一括して改善したい
マトリックス組織では、地域軸や製品軸と、技術や機能の軸を組み合わせることで、このようなニーズに応えようとします。たとえば、「地域別の責任者(リージョンマネージャー)」と「製品別の責任者(プロダクトマネージャー)」を両方立てることで、地域の実情をふまえつつ製品戦略を進めることができます。
また、複数の製品やサービスで共通して使われるコア技術がある場合、その技術を担当する専門組織(プラットフォームチームなど)を機能軸側に置き、各製品・プロジェクトへ人材を供給する形を取ることもできます。そうすることで、共通部分は効率よく開発・運用しつつ、表側の製品やサービスは市場ごとに最適化する、という考え方を取り入れやすくなります。
このように、ビジネスの多角化やグローバル化が進む中で、「どの軸も切り捨てたくない」「複数の軸を同時にマネジメントしたい」という企業のニーズに応える形で、マトリックス組織が採用されるケースが増えています。
マトリックス組織のメリットを詳しく解説
マトリックス組織には、複数の軸で組織を構成するからこそ得られる独自のメリットがあります。特に、「専門性の維持」と「事業・プロジェクトごとの成果への貢献」を両立しやすい点が大きな特徴です。通常の組織では、専門分野に特化すると事業全体の成果が見えにくくなり、逆に事業ごとの成果を重視すると専門性の横連携が弱くなることがあります。マトリックス組織は、このジレンマをある程度解消する構造として設計されています。
また、マトリックス組織は、環境変化が激しい分野や、多数のプロジェクトが並行して進む業界、グローバルに事業を展開する企業などにおいて、柔軟な対応力を発揮しやすいと言われます。ここでは、主なメリットをいくつかの観点に分けて詳しく見ていきます。
メリット1:専門性を維持しながらプロジェクト・製品に深く関われる
マトリックス組織の代表的なメリットは、「専門性の維持」と「現場への深い関与」を同時に実現しやすい点です。メンバーは機能軸(例:開発、デザイン、マーケティングなど)に所属しながら、製品軸やプロジェクト軸のチームに参加します。この構造により、次のような良さが生まれます。
- 専門スキルの成長機会を保ちつつ、実際の製品やサービスの成果に直結する仕事ができる
- 同じ専門分野のメンバー同士でノウハウを共有しながら、異なるプロジェクトで得た経験を持ち寄ることができる
- 新しい技術や手法を、複数のプロジェクトに横展開しやすくなる
たとえばエンジニアの場合、「開発部」という専門組織に所属しながら、Aプロジェクト・Bプロジェクトといった複数の案件に関わることがあります。開発部としてはコーディング技術や設計の品質を高めるための勉強会やコードレビューの文化を育てつつ、プロジェクト側ではユーザーの反応やビジネス上の成果を意識した開発を行うことができます。
このように、マトリックス組織は「専門家として成長したい」という個人のニーズと、「事業成果に貢献してほしい」という組織のニーズの両方を叶えやすい構造になっています。専門分野に閉じこもることなく、ビジネスの文脈を理解した専門家を育てやすい点も、長期的な人材育成の観点から大きなメリットです。
メリット2:複数の視点から意思決定できるためバランスが取りやすい
マトリックス組織のもう一つの大きなメリットは、「複数の視点から物事を検討しやすい」ことです。メンバーやマネージャーは、機能軸と製品・プロジェクト軸という二つの観点から状況を見ています。そのため、意思決定においても、どちらか一方に偏りすぎず、バランスの取れた判断がしやすくなります。
例えば、ある新機能を短期間でリリースするべきかどうかを検討するとします。このとき、
- プロジェクト側の視点:市場のタイミングや競合状況を踏まえ、「早く出したい」というニーズが強い
- 機能側(技術や品質)の視点:品質確保や技術的負債を考え、「時間をかけて丁寧に作りたい」という意見が出る
というように、異なる意見が出てくることがあります。マトリックス組織では、この二つの視点が構造として組み込まれているため、議論の場に両者が自然と参加しやすくなります。結果として、「どの程度の品質を確保しながら、どのタイミングで出すのがベストか」といった折り合いをつける議論が行われやすくなります。
また、グローバルなマトリックスの場合、「本社の全社戦略」と「各地域の事情」を両方踏まえた判断が求められます。地域側は現地の文化や競合状況を重視し、本社側はブランド全体や長期戦略を重視することが多くなります。このような異なる視点を、組織構造として交差させているのがマトリックス組織であり、その結果として「短期と長期」「局所と全体」「専門性と事業性」といった複数の軸のバランスを取りやすくなる点がメリットとなります。
複数の視点を取り込むことで、意思決定のプロセスは一見複雑になりますが、その分だけ「後から大きな修正が必要になるリスク」を減らす効果も期待できます。特に、規模が大きく影響範囲が広いプロジェクトでは、一つの視点だけで判断すると見落としが生じやすいため、マトリックス型のように多面的なチェックが入る構造は有効に働きます。
メリット3:柔軟なリソース配分と組織の適応力向上
マトリックス組織は、人的リソース(人員)を柔軟に配分しやすいという点でもメリットがあります。リソース配分とは、「どのプロジェクトや製品に、どのくらいの人数や時間を割り当てるか」を決めることです。変化の激しい環境では、状況に応じてリソースの配分を素早く見直す必要があります。
マトリックス組織では、専門組織(機能軸)が人材のプールのような役割を持ち、そこから複数のプロジェクトや製品チームに必要な人数をアサインしていきます。この仕組みにより、次のような動きがしやすくなります。
- 急に重要度が高まったプロジェクトに対して、短期間だけ追加メンバーを投入する
- 成長が鈍化した事業から、伸びている事業へと人材をシフトする
- 特定分野の専門家を、複数のプロジェクトで部分的に活用する
これにより、固定的な組織構成に比べて、企業全体としての「適応力」が高まりやすくなります。適応力とは、環境の変化に合わせて自らを変えていく力のことです。マトリックス組織は、プロジェクト単位でのチーム編成や解散がやりやすく、必要に応じて組み合わせを変えられるため、環境変化に応じた組織再編が行いやすい構造だと言えます。
また、メンバー個人にとっても、複数のプロジェクトや製品に関わることで、経験の幅を広げやすいという利点があります。これは、キャリア形成やスキルの多様化にもつながります。単一の業務や製品だけでなく、異なる文脈で自分の専門性を活かす経験を積むことで、変化に強い人材として成長しやすくなります。
マトリックス組織のデメリットと発生しやすい課題
マトリックス組織は、多様な視点を取り込める一方で、その複雑さゆえのデメリットや運用上の難しさも抱えています。特に、「上司が二人いる構造」「複数の軸での調整の多さ」「意思決定の遅れ」といった点は、よく指摘される課題です。仕組みとしては理にかなっていても、日々の現場でどのように運用されるかによっては、かえって負担が増えたり、メンバーがストレスを感じたりすることがあります。ここでは、マトリックス組織で起こりやすいデメリットと、その背景にある構造的な要因を整理して解説します。
指示が二重になりやすく、優先順位の迷いが生じる
マトリックス組織特有の課題として、まず挙げられるのが「指示が二重になりやすい」という点です。ダブルレポートラインという構造上、一人のメンバーに対して、機能側の上司とプロジェクト・製品側の上司の二人が存在します。それぞれが異なる観点から期待や指示を出すため、次のような状況が起こりやすくなります。
- 機能側の上司からは「この期間でスキルアップのための研修や改善タスクに時間を使ってほしい」と言われる
- プロジェクト側の上司からは「納期が迫っているので、今週は機能追加を最優先にしてほしい」と言われる
- 結果として、メンバー本人がどちらを優先すべきか判断に迷う
このような状態が続くと、メンバーは常に「どの仕事を先にやるべきか」「どちらの上司の期待を優先すべきか」を自分で解釈しなければならず、精神的な負担が大きくなります。さらに、上司同士の間で優先順位の調整が十分に行われていない場合、メンバーが板挟みのような感覚を覚えることもあります。
また、「責任の所在」が分かりにくくなる点も課題です。たとえば成果が思うように出なかったとき、「これは機能側の問題か、プロジェクト側の問題か」が曖昧になり、「誰がどの範囲の責任を持っているのか」がはっきりしない状況が生まれることがあります。これは、メンバーにとっても上司にとってもストレスの原因となりやすい要素です。
このような問題は、単に個人のコミュニケーション力だけでは解決しづらく、組織として「優先順位のつけ方」「指示の出し方」「役割分担のルール」を明確にしておく必要がある点が、マトリックス組織特有の難しさと言えます。
調整コストの増大と意思決定のスピード低下
マトリックス組織では、何かを決める際に複数の軸の責任者が関わるため、「調整コスト」が増えやすくなります。調整コストとは、関係者同士で話し合い、合意を形成するために必要な時間や労力のことです。関係者が増えれば増えるほど、意見のすり合わせに時間がかかり、意思決定のスピードが落ちる可能性があります。
具体的には、次のような場面で調整が増えやすくなります。
- 新しい機能を追加する際、プロジェクト側・開発側・運用側・営業側など、複数の機能の責任者が承認に関わる
- 人員のアサインを決める際、複数のプロジェクトのリーダーが同じメンバーを必要としており、優先順位を話し合わなければならない
- 予算の配分を決める場面で、機能組織として必要な投資と、個別プロジェクトとしての投資がぶつかる
こうした場面では、誰か一人が「これでいきましょう」と即座に決めるのではなく、関係者全員の合意を取る必要があることが多くなります。その結果、判断の質は高まりやすいものの、スピードが犠牲になりやすいという側面があります。特に、環境変化が激しく、素早い判断が求められる状況では、この遅れが競争力の低下につながるリスクもあります。
また、会議の数が増えがちになることも、現場の感覚として大きな負担になります。複数の軸を持つということは、それだけ関係者も多くなるということでもあるため、「関係者全員での確認」が増えやすくなる構造的な理由があります。これにより、本来集中すべき実務の時間が圧迫されるという課題も生じやすくなります。
役割の曖昧さからくる混乱とストレス
マトリックス組織では、役割分担や権限の境界が曖昧になりやすいという点もデメリットとして挙げられます。機能側とプロジェクト側の両方が存在することで、「どこまでを機能側が決め、どこからをプロジェクト側が決めるのか」といった線引きが不明確なまま運用されるケースがあります。
例えば、
- 採用や評価は機能側の責任だが、日々の仕事の指示はプロジェクト側が行っている
- メンバーはプロジェクトで高い成果を出しているが、その評価が機能側に十分伝わっていない
- 逆に、機能側が重視している改善活動が、プロジェクト側からは「直接の成果につながらない」と見なされる
といった状況が起こることがあります。このようなズレは、メンバーにとって「自分は何を期待されているのか」「どこに向かって努力すればよいのか」が見えにくくなる原因になります。結果として、モチベーションの低下や心理的な負担の増大につながることがあります。
さらに、マネージャー側にもストレスがかかりやすくなります。機能側・プロジェクト側の両方のマネージャーが、互いの領域を尊重しつつも、自分の責任範囲を果たそうとする中で、「どこまで踏み込むべきか」「どのように連携するべきか」を常に意識して動かなければならないためです。このような調整の難しさは、構造としてマトリックスを採用している限り、意識的にマネジメントしていく必要があります。
マトリックス組織が向いている企業とその特徴
マトリックス組織が適している企業には、いくつかの共通した特徴があります。一般的な機能別組織や事業部制組織では対応しきれない複雑性や多様性を抱えている企業ほど、マトリックス型の利点を活かしやすくなります。特に、扱う製品の種類が多い・複数地域で事業を展開している・プロジェクト単位の仕事が多いといった状況にある企業に向いている組織形態です。ここでは、マトリックス組織が有効に機能する企業の特徴を、複数の観点から詳細に整理していきます。
製品やサービスの種類が多く、専門性と事業性の両立が必要な企業
最も典型的な特徴として、「多種類の製品やサービスを扱っていて、それぞれに異なる市場ニーズがある企業」が挙げられます。こうした企業では、製品ごとに顧客層や競合、技術要件が異なるため、一つの方向性だけを全社で統一することが難しくなります。
たとえば以下のような状況が当てはまります。
- 製品Aは高い専門技術が必要だが、製品Bはスピード重視で開発したい
- サービス1は長期的な顧客育成が必要だが、サービス2は短期的な成果が求められる
- 製品ごとに担当チームを作りたいが、専門分野のスキルは全社で維持したい
このような企業では、「専門分野の組織(機能軸)」と「製品別組織(製品軸)」の両方を持つ必要があり、それを実現できるのがマトリックス組織です。
機能側の組織が技術の品質基準やスキル育成を担い、一方で製品軸の組織が市場や顧客への深い理解をベースにした意思決定を行います。この二つが組み合わさることで、専門性と事業成果を同時に追求できる体制になります。
複数地域・複数市場で事業を展開する企業
マトリックス組織が向いているもう一つの特徴として、「地域によって市場特性が大きく異なる企業」が挙げられます。国や地域ごとに顧客の文化、法規制、販売チャネルが異なる場合、全社で同じ戦略を適用することが難しくなります。
たとえば、以下のような場面でマトリックス組織が効果を発揮します。
- 日本市場では品質基準が非常に重要だが、新興国市場では価格帯の調整がカギになる
- 地域ごとに販売パートナーが異なり、営業戦略を変えなければならない
- 同じ製品であっても、地域に合わせて仕様変更する必要がある
このような場合、「地域軸 × 製品軸」というマトリックス構造を採用することで、地域ごとの事情を踏まえつつ、全社としての製品戦略も維持することができます。
地域マネージャーはその土地の特性に合わせた対応を行い、製品マネージャーは全世界での製品品質やブランドを守ります。両者が交差することで、グローバル企業特有の複雑な状況に適応しやすくなる点がマトリックス組織の強みです。
プロジェクトベースで業務が進む企業や開発体制が多様な企業
IT企業やコンサルティング企業、デザイン会社、研究開発組織など、「プロジェクトごとにメンバーを柔軟に集めて仕事を進める企業」もマトリックス組織との相性が良いと言われます。
たとえば次のような仕事の進め方が行われる場合、プロジェクト軸を持つマトリックス型が力を発揮します。
- 数か月単位のプロジェクトが複数同時に走る
- 各プロジェクトで必要な専門スキルが異なる
- プロジェクトが終わるとメンバーが別プロジェクトに移動する
- ある専門分野のメンバーが複数プロジェクトに部分的に参加する
このような場合、プロジェクトチームは事業成果に責任を持ち、専門組織(機能軸)はスキル育成や品質確保を担います。これにより、組織全体として柔軟に人材を配置しながら、専門性も失わない形でプロジェクトを進めることができます。
プロジェクトが頻繁に立ち上がったり、短期間でチーム編成を変える必要がある企業の場合、マトリックス型の「人材プールとしての機能組織」と「成果を出すプロジェクト組織」の両方を持つ構造が非常に適しています。
組織内の知識共有や専門性の標準化が重要な企業
マトリックス組織は、専門性を横断的に共有したい企業や、全社で統一された基準を持ちたい企業にとっても向いている組織形態です。
次のような場面で効果を発揮します。
- 複数の製品ラインが同じ技術基盤や設計思想を共有する必要がある
- 複数の部署に分かれている専門職のスキルレベルをそろえたい
- 共通の品質基準やセキュリティ基準を全社で徹底したい
機能軸が存在していることで、専門組織は以下のような役割を果たします。
- スキル標準や教育プログラムを一元管理
- 技術的負債や品質課題を横断的に改善
- 共通課題をプロジェクト間で共有
- 新しい技術やツールを全社へ展開
これにより、事業部制組織のみの場合に発生しやすい「ノウハウの分断」や「組織間の品質のばらつき」を防ぐことができます。
他組織形態との比較から見るマトリックス組織の位置づけ
マトリックス組織の特徴をより深く理解するためには、他の組織形態と比較しながら、その位置づけを整理することが効果的です。企業が取り得る組織形態にはさまざまな種類がありますが、その中でも代表的なのが「機能別組織」と「事業部制組織」です。これらは、企業の成長段階や扱う事業の種類によって適性が異なり、それぞれにメリットとデメリットが存在します。マトリックス組織は、そうした従来の組織形態の限界を補うために生まれた構造であり、複雑さが増した現代の事業環境に対応するために選択されることが多くあります。
ここでは、機能別組織・事業部制組織と比較しながら、マトリックス組織がどのような立ち位置にあるのかを丁寧に解説します。
機能別組織との比較:専門性の強化 vs. 顧客・市場への近さ
機能別組織は、「営業部」「開発部」「デザイン部」「人事部」のように、業務内容の種類別に組織を分ける形です。専門性を高めやすく、知識や技術を社内で共有しやすい点が大きなメリットです。しかし、縦割りの構造になるため、以下のような課題が生じやすくなります。
- 製品や顧客に対する責任が曖昧になりやすい
- 部門間の調整が必要で意思決定が遅れやすい
- 各部門が独自の最適化を進め、全体戦略が見えにくくなる
このような機能別組織の弱点を補うために、マトリックス組織は「機能軸」に加えて「製品軸」や「プロジェクト軸」を導入します。
マトリックス組織のポイントは次の通りです。
- 専門性は機能軸で維持できる
- 製品ごとの責任も明確にできる
- 市場の変化や顧客ニーズにより早く対応しやすい
つまり、機能別組織の「専門性は高いが事業に近くない」という欠点を克服するために、マトリックス組織は二つの軸を交差させる構造を採用していると言えます。
事業部制組織との比較:自律性の高さ vs. 全社最適の維持
事業部制組織は、「製品A事業部」「製品B事業部」「地域別事業部」というように、事業ごとに部門を分け、それぞれが独立した“ミニ会社”のように機能する構造です。事業部ごとに責任と権限を持つため、次のような特徴があります。
- 意思決定が早く、市場に合わせて柔軟に動きやすい
- 採算が事業単位で把握できるため、経営判断がしやすい
- 事業部長が経営者感覚を持って成長しやすい
一方、事業部制には以下の課題もあります。
- 事業部間でノウハウが共有されにくい
- 重複業務が増えやすく、全社的な効率が下がる
- 部門最適に陥り、全社戦略とのズレが生じる
マトリックス組織は、この事業部制組織の弱点にも対応できる構造です。
- 共通の専門性は機能軸で維持し、分散を防げる
- 事業部制のように製品や地域の軸を持ち、市場に合わせた動きもできる
- 全社の専門性と事業ごとの戦略を両立させられる
このように、マトリックス組織は事業部制の自律性と機能別組織の専門性を“両立させるための構造”として位置づけることができます。
マトリックス組織は「複雑性の高い企業」に適した中間型の解決策
機能別組織も事業部制組織も、単一の軸で組織を分けるため、成長した企業や多角化企業において限界が見え始めます。マトリックス組織は、その限界を補うための構造であり、多くの場合次のような環境に適しています。
- 製品ラインが多い
- 地域展開が広い(国内・海外に複数の市場を持つ)
- プロジェクト型の働き方が中心
- 専門性と事業性の両方を強化したい
- 全社で統一した品質基準を維持したい
つまりマトリックス組織は、「機能別」「事業部制」それぞれのメリットを活かし、デメリットを補うように設計された“ハイブリッド型”の組織であり、現代の複雑な事業環境に対応する中間型の解決策として位置づけられます。
マトリックス組織を円滑に運用するためのポイント
マトリックス組織は、構造としては合理的でも、運用を間違えると混乱やストレスを生みやすい組織形態です。上司が二人いることや、複数の軸で物事を考える必要があることから、放っておけば「誰が何を決めるのか分からない」「会議と調整ばかりで前に進まない」といった状況に陥る可能性があります。そのため、マトリックス組織を円滑に機能させるには、組織運営のルールづくりやコミュニケーションの設計を意識的に行うことが大切です。ここでは、具体的な運用のポイントをいくつかの観点に分けて解説します。
役割・権限・優先順位の「ルール」を明文化する
マトリックス組織では、「誰が何に責任を持つのか」「どの範囲のことをどの上司が決めるのか」を曖昧にしたまま運用してしまうと、現場に大きな混乱を招きます。そのため、まず最初に行うべきことは、役割や権限の範囲をできるだけ明文化することです。
たとえば、次のような観点でルールを整理します。
- 機能側のマネージャーが決めること
- スキル標準や開発プロセスなどの専門領域のルール
- メンバーの評価・昇進・専門教育に関わる事項
- プロジェクト・製品側のマネージャーが決めること
- プロジェクトの優先順位・スケジュール・成果物の範囲
- 日々のタスクの割り振りや進捗管理
また、優先順位の考え方についても、共通のルールを決めておくことが重要です。たとえば「顧客に対する重大なインシデント対応は、どのプロジェクトよりも最優先にする」「全社で定めた品質基準は、個別プロジェクトの都合より優先される」といった基準です。このようなルールが共有されていると、現場のメンバーも判断の軸を持ちやすくなります。
ルールを決める際には、文書化して終わりにするのではなく、具体的なケースを例に挙げながら説明することが効果的です。たとえば、「Aさんが複数プロジェクトに参加している場合、どのように時間配分を決めるか」といった典型的な場面を取り上げ、機能側とプロジェクト側の役割を具体的に示すことで、実務に落とし込みやすくなります。
上司同士のコミュニケーションと合意形成の仕組みづくり
マトリックス組織を円滑に動かすうえで重要なのは、「メンバーにすべてを委ねず、上司同士でしっかり話し合う」という姿勢です。ダブルレポートラインのもとで、機能側とプロジェクト側のマネージャーが互いに連携しないままそれぞれ指示を出すと、メンバーは板挟みになり、負担が増えてしまいます。
そのため、次のような仕組みづくりが有効です。
- 機能マネージャーとプロジェクトマネージャーが定期的に1対1で話す時間を設ける
- 人員配置や重要タスクの優先順位について、両者で合意を取る場を用意する
- メンバーに依頼を出す前に、可能な範囲でマネージャー同士が調整しておく
このとき、「最終的にどちらが優先権を持つのか」を決めておくことも大切です。たとえば、「短期的なタスクの優先順位はプロジェクト側が主導し、中長期のスキル育成や配置は機能側が主導する」といったように、時間軸やテーマによって役割を分ける考え方があります。
また、重要な方針変更やリソースシフトが発生する場合には、「マネージャー同士の合意 → メンバーへの説明」という順番を守ることが望ましいです。こうすることで、メンバーが「どちらの意見を聞けば良いのか」を迷わずに済み、組織全体としても一貫したメッセージを届けやすくなります。
メンバーへの情報共有と対話の場を継続的に設ける
マトリックス組織では、メンバーが「自分はなぜこのプロジェクトにアサインされているのか」「どの軸の目標をどのように意識すればよいのか」を理解していることが、とても重要になります。そのためには、一方的な指示だけではなく、背景や意図を共有する対話の場が必要です。
具体的には、次のような取り組みが考えられます。
- 機能組織としての目標(技術力向上、品質改善など)を定期的に説明するミーティング
- プロジェクト側の目標(リリース時期、ターゲットユーザー、重視する指標など)を共有するキックオフミーティング
- メンバーが感じている負荷や迷いを聞き出す1対1の面談
こうした場で、「今はプロジェクトのこのフェーズなので、短期的にはこちらを優先してほしい」「次の半年では、このスキルを伸ばす流れを一緒に考えたい」といった対話を行うことで、メンバーは複数の軸を自分の中で整理しやすくなります。
また、マトリックス組織では、「自分で判断する力」が求められる場面も多くなります。すべての細かい優先順位を上司が決めるのではなく、「どの軸のどの指標が、今もっとも重要か」という考え方のフレームを共有し、メンバーが自ら判断できるように育てていく視点も重要です。
まとめ
マトリックス組織という複雑な組織形態について、その構造、採用理由、メリット・デメリット、向いている企業の特徴、他の組織形態との比較、そして運用のポイントまでを体系的に整理してきました。マトリックス組織は、機能別組織や事業部制組織では対応しきれない、現代の企業環境における多様性と複雑性に向き合うために生まれた組織形態です。特に、複数の製品を扱う企業や、複数地域で事業を展開する企業、プロジェクトベースで業務が進む組織において採用されやすい構造と言えます。
マトリックス組織の最大の特徴は、二つ以上の軸で組織を構成する点にあります。たとえば、機能軸と製品軸、機能軸とプロジェクト軸、地域軸と製品軸といったように、異なる視点を組織構造として同時に取り入れることで、「専門性の維持」と「市場や顧客への適応」という二つの要請に応えられる仕組みが作られます。これは、単一の軸ではどうしても実現が難しいアプローチです。
また、マトリックス組織が採用される理由としては、変化の激しい市場環境に対応する柔軟性の必要性、専門組織によるスキル・知識の一元管理、事業・製品単位での成果責任の明確化などが挙げられます。これにより、専門性の向上と事業成果の両立が可能になり、企業が多様な市場・技術にまたがってビジネスを展開する際に強みを発揮します。
一方で、マトリックス組織には運用上の難しさも存在します。特に、「上司が二人いる」という構造から生まれる優先順位の混乱、指示の食い違い、責任範囲の曖昧さなどは代表的な課題です。また、複数の軸が存在することで調整すべき関係者が増え、意思決定が遅れやすい点もデメリットとして挙げられます。会議や調整の機会が増え、メンバーの負荷が高まるケースも珍しくありません。
しかし、これらのデメリットは適切な運用によって軽減できます。役割や権限の明確化、上司同士のコミュニケーションの強化、メンバーへの情報共有と対話の習慣化などを徹底することで、組織の複雑性を抑え、マトリックスの持つ利点を最大限に引き出すことが可能です。また、共通ルールや優先順位の基準を明示することで、メンバーの判断負担を減らし、組織としての一貫性を保つことができます。
この記事全体を通して理解していただきたいのは、マトリックス組織は「万能な組織形態」ではなく、「複雑な環境に対応するための一つの選択肢」であるという点です。企業の事業内容、規模、文化、業務の特性などに応じて適性が変わります。適切に設計され、丁寧に運用されることで、マトリックス組織は大きな力を発揮する一方、準備不足やコミュニケーションの不足があると混乱を招きかねません。
プログラミングやITの現場でも、プロジェクト単位の働き方が一般的になり、専門性と事業成果を両立する働き方が求められる場面が増えています。その中で、マトリックス組織の理解は、自分が所属する組織を俯瞰し、より良い形で貢献するための視点を広げる助けになるはずです。複雑な組織構造を正しく理解することは、個人のキャリア形成にも役立つ重要な知識と言えるでしょう。